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守山城(もりやまじょう)は、尾張国守山(愛知県名古屋市守山区市場)にあった日本の城である。 == 概要 == 平山城で、規模は東西に約58メートル、南北に約51メートル、四方には堀がめぐらせてあったと言われる。 1521年(大永元年)、今川氏豊が那古野城を築いた際に、小幡城・川村城に対応して松平信定が築城した。1526年(大永6年)、連歌師宗長が館で松平信定新知行祝の千句連歌会を催し、「花にけふ風を関守山路哉」と守山を詠んだ発句が宗長手記・下巻に記されておりこれが「もりやま」が「守山」と記された初見である。 『徳川実記』や『三河物語』などによると、1535年(天文4年)には織田信秀の弟信光(松平信定の娘婿)の居城となっていたが、信光の内応により松平清康が着陣した際、世に言う「守山崩れ」が起こる。(詳細は「森山崩れ」を参照のこと) 『信長公記』によると、1555年(弘治元年)、信長・信光により清洲織田氏(織田大和守家)の織田信友が滅ぼされた後、信光が清洲城に入った信長より譲られた那古野城に移ると、代わりに信光の弟の信次が入った。しかし早々に家臣洲賀才蔵が信長の弟秀孝を殺害するという事件を起こしたために出奔。城下は、信長の弟で秀孝の兄である信行(信勝)の兵により焼き払われた。城には信次の重臣角田新五らが立てこもり続けていたが、佐久間信盛の働きにより信長の異母弟信時を城主とすることで決着した。しかし、信時は他の家臣を重用したため角田新五により切腹させられ、城には再び新五一派が立てこもった。その後、帰参を許された信次が城主に復帰。信次は天正2年(1574年)、長島一向一揆戦において戦没した。 天正元年(1573年)、浅井長政がお市の方の兄である織田信長と対立し、小谷城が攻め落とされ、長政らは自害し浅井氏は滅亡する。お市の方と茶々、初、江の三姉妹は信次(三姉妹には大叔父にあたる)に預けられ、守山城に滞在したともいわれている(『渓心院文』)〔宮本義己『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)74頁〕。 廃城の時期は、桶狭間の戦いの後とも、後に城主に返り咲いたという信次の死後とも、長久手の戦いの後とも言われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「守山城 (尾張国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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